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歴史
ジョンソン・エンド・ジョンソン100年史
ジョンソン・エンド・ジョンソン100年史
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ジョンソン・エンド・ジョンソン100周年にあたる1986年に発刊された"A Company That Cares. One Hundred Year Illustrated History of Johnson & Johnson"の内容を再編集して紹介しています。
  • 第1話

    思いやりの1世紀が始まる

    南北戦争の嵐が吹き荒れる1861年、16才のロバート・ウッド・ジョンソンは薬剤師見習いになるため、ペンシルバニアの片田舎からニューヨーク州ポーキプシーへ向かった。

    彼は伯父のジェームス・ウッド・ジョンソンから膏薬の調剤を学び、数年後にニューヨークへ移り、学んだ技術をビジネスに活かそうとした。彼は、まず、輸入薬のセールスマンとしてビジネスの知識を広げていき、1873年には同じように頑固で自分の我を通すタイプのジョージ・シーベリーと出会った。この二人は「シーベリー&ジョンソン」という名前でビジネスを始めたが、もともとぶつかることが多かった彼らはロバートが二人の弟たち、ジェームス・ウッド・ジョンソンとエドワード・ミード・ジョンソンをビジネスに引き込んだためにますます険悪になっていった。

    ジェームスは新しい機械を設計し、組み立てる技術を、エドワードは営業や宣伝広告のセンスを、そしてロバートは以前のパートナー、シーベリーとの法律問題をかたづけると企業家としての会社の推進力として、それぞれの才能をビジネスに活かすことになる。

    この街の歴史はオランダからの移民が1730年に住み始めたことから始まる。その後、独立戦争時には、ジョージ・ワシントンが軍を立て直す間、アレキサンダー・ハミルトンがイギリス軍を押し留めた場所でもあり、1834年にデラウェアーラリタン水路が開通し、ニューブランズウィックが北の港になると、アメリカで最も多くの船が出入りする港になった。街へは靴を作るゴム工場や果物入れなどの工場など、多くの工場が立ち並ぶようになり、医療用具やヘルスケア関連用品を作りはじめたジョンソン・エンド・ジョンソンはその仲間に加わった。

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  • 第2話

    近代医学への道

    ロバート・ウッド・ジョンソンが見習いだった頃に受けたトレーニングは、膏薬を作ることに焦点が置かれていた。彼はニューヨークへ渡った後も膏薬をゴムとの混合で作ることを考えていた。

    後にその当時を振り返って彼はこう語っている。「私達はまずベンジンと膏薬を混ぜゴムにつけることから始めました。しかし、膏薬として有効な薬は溶液に浸されたゴムとは相容れないものでした。また、ゴムを砕き溶液なしで薬に混ぜたりしましたが、ゴムを砕く機械が見つからなかったり、機械がうまくいくと混合が悪くなり、その点が解決するとまったく薬効がなくなっていたりすることのくりかえしでした。」このような失敗の繰り返しも後にロバートのビジネスには大きな助けとなった。

    一方、1800年代中頃の外科手術は、治る確立の低いものと考えられていた。その頃の水準は、消毒の技術がまだ確立されていなかったため、論理的には治るはずの患者でも外科手術における死亡率は高く、その原因は解明されてはいなかった。しかし、1800年代後半にさしかかると細菌学によって患者の生命にかかわる重要な謎が解明されようとしていた。

    英国のジョセフ・P・リスター博士は、「空気中にある見えない細菌が患者に感染し、手術後の死亡につながる」というパスツールの理論を証明し、また一つ近代医学の幕が開いたのである。彼は、手術室に奇妙な形の機械を持ち込み沢山の粉を撒き散らした。外科医や看護婦、そして患者はひどくおびえたが、この粉が空気中の細菌の感染を防ぐ役割を果たした。

    1876年、フィラデルフィアで開催されたアメリカ建国100年記念の医学会に出席したロバートはこの理論を聞き大変感銘を受けた。そして、消毒済手術用包帯を作るという新しいビジネスのアイディアを胸にニューヨークを後にした。彼のアイディアは素晴らしいものだったが、この夢が実現するのは10年後のこととなる。また、抗菌手術用包帯が完全に滅菌された製品として市場に出るのはまだまだ先のことであった。

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  • 第3話

    初の製品カタログ

    1886年に創業した初期のジョンソン・エンド・ジョンソンは、ある新聞記事に「たったの14人の社員でこのような小人数で薬品の製造を始めるのはあまりに楽観的すぎるのではないか」という記事が掲載されたほどであった。 1887年10月28日に有限会社となった時には10万ドルの資本金でスタートし、従業員は125名となっていた。

    ロバート・ウッド・ジョンソンの新しいアイディア、インドのゴムをベースとした湿布薬はアメリカ薬局方に掲載されている多くの処方が含まれていた。酸化亜鉛、ドクニンジン、アヘン、キニーネ、松ヤニなど、様々な種類の処方があったが、なかでも特に評判が高かったのはカラシナの種から作られたものと、アトロピンの原料となるハシリドコロから作られるものだった。

    カタログの次に掲載されていたのは包帯だった。タールを塗ったジュート(東方のインディアンが袋を作るのによく使われた繊維)で作られたもの、工事現場で使われるような麻の繊維で作られたものもあった。

    さらにカタログは石灰酸を含む包帯へと続いていった。「ジョセフ・P・リスター博士の処方に基づいて作られた」とある「リントンモイスト ガーゼ」は、こういった用法では始めて使われるコットンを使用したものだった。ヨードホルムの10%溶液に漬けられ、密封容器に包装されたこの製品は「手術室のスカンク」と呼ばれる程のひどいにおいだったが、効果はそのにおいを我慢するに値するものであった。

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  • Fred B. Kilmer

    第4話

    キルマー博士との出会い

    41才になったロバート・ウッド・ジョンソンは、黒髪で背が高く大柄で口髭を生やしていた。彼は、よく「街をぶらぶらする」と言って大股で街を徘徊していた。その散歩の途中でしばしば立ち寄ったのがオペラハウス薬局だった。そして、そこで経営者のフレデリック・バーネット・キルマー博士と出会ったのである。キルマー博士は当時35才でニュージャージー・ファーマスーティカル・アソシエイションの会長を務めていた。後に、「タイム」誌の中では「最も尊敬された薬剤師」と述べられている。

    この薬局では薬だけでなくソーダ水のような最新流行のものも置いてあり、大変人気のある、人の集まる場所であった。この薬局へよく来るお客様の中には研究に使う材料を買いに来るトーマス・アルバ・エジソンの姿もあった。 エジソンが発明した初の白熱電球を作るための炭素棒を買ったのもこの薬局だった。

    彼がこの薬局に来ると調剤カウンターの中に入りキルマー博士が薬剤を濾したり、蒸留させたりするところに見入っていたようだ。以後、キルマー博士とエジソンは親友として色々な分野における科学的な研究への興味を分かち合うようになった。

    キルマー博士は、次第に薬の調合だけでなく薬の素となる植物の生成にも興味を持ち、知識を身につけていった。薬として使われる植物がどこに育成し、またどのように使われるかを示した地図を薬局のディスプレイに使った。そのディスプレイにエジソンやロバートも興味を持ち長い時間かけて眺めていた。

    ある日、キルマー博士とロバートは、ジョセフ・P・リスター博士の学説について話し合った。キルマー博士もまたリスター博士の信奉者で殺菌について学ぶ研究者が少ないことを嘆いていた。キルマー博士はアメリカでリスター博士の説を信じる学者や、医者のグループと連絡をとり、殺菌や滅菌の方法や経験について学ぶことにした。また、同じ頃ロバートも会社で滅菌手術用包帯の研究と改良に力を注いでいた。

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  • 第5話

    医学界を席巻した「Modern Methods」の出版

    1888年、フレデリック・バーネット・キルマー博士は医学の専門家の意見をジョンソン・エンド・ジョンソンの出版した「Modern Methods of Autiseptic Wound Treatment」という本にまとめた。この本はいろいろな面でのハウトゥーを集めたマニュアルでもあり、出版後間もなく、これまでにあった中で一番権威のある論文だと称賛されるようになった。

    この「Modern Methods」は、科学の記録という意味以外に、J&J製品にとってセールスカタログでもあった。ロバート・ウッド・ジョンソンはこのカタログの裏表紙を使い、包帯、コットン、ガーゼ、スーチャー、リガチャー、ヨードホルム、スプリンクラー、ドレイネージュチューブなどと飛躍的に増えてきた製品のリストを掲載した。

    この本によってロバートはキルマー博士の多彩な才能に気づき、彼をディレクター オブ サイエンティフィック アフェアーズとして会社に加わるように誘い、キルマー博士は、それに応えた。その後も「Modern Methods」の評判は衰えず、世界中で400万部という数が出回り、このマニュアルが当時の手術と近代手術の架け橋となり、教育というプロセスも始められるようになっていった。

    キルマー博士はのちにこう語っている。「手術室からの意見は断定的なほど滅菌下での手術や滅菌に関する改革に反対するものばかりだった中で、わが社は勇気をもって新しいタイプの手術用ドレッシングによって最初の一歩を踏み出し、勝利をつかんだのです。」と。 そして、それまでの意見は消えていった。このように「Modern Methods」が、ジョセフ・P・リスター博士の教えを医学界へ紹介していくうえで重要な役割を果たしたのだ。

    ある時、この本の中の新しい滅菌の手術用ドレッシングの製造方法のことがリスター博士の耳に届き、彼は細かい点について教えてほしいという手紙を送ってきた。滅菌についての技術を発見した人が今はJ&Jで作り上げたさらに発展した技術に興味をもっているのだ。そして、1891年の12月28 日、キルマー博士が彼の要望に答えるために出かけたことはJ&Jの社員に大きな誇りとなった。

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  • 第6話

    信頼性の高い製品と情報の発信基地として

    ジョンソン・エンド・ジョンソンの革新的な製品への需要が高まるとともに、生産設備の限界が近づき、工場の増設が必要となっていた。現在もラリタン川の河岸にある建物がそれである。後にロバート・ウッド・ジョンソンが「小さな始まり」と名付けた時代はすぐに過ぎ去っていった。アメリカは16,000の企業が倒産した1893年の大恐慌から少しずつ立ち直ろうとしている時代だった。

    しかし、メディカルビジネスはかろうじてこの渦に巻き込まれることなく、J&Jの従業員は400人にまで増え、工場とオフィスのスペースは14の建物までにおよぶようになった。工場での生産はさらに急激な伸びを示していた。

    毎朝、"Johnson & Johnson"と焼印を押された荷物を積んだ蒸気船が当時まだ新しかった自由の女神の横を通り、ラリタン川をニューヨーク港へと下り、各地へと製品が運ばれていった。また、J&Jではアメリカンドリームを心に抱き、やる気とエネルギーにあふれてやってきた多くの移民たちを雇うようにもなっていた。

    この頃になるとどんどん増えていくジョセフ・P・リスター博士の信奉者たちにJ&Jの製品は消毒済み手術用ドレッシングのパイオニアとして認められるようになり、会社はその製品だけでなく、信頼性のある最新情報の発信地としても認識されるようになっていた。このような名声が高まるとともに、製品の品質への要求も高まる一方だった。ロバートはこの点でも「だいたい消毒されている」などという製品はないのだということを社員に叩き込んでいた。製品は完全に清潔でなければいけないという信念のもとに、少しでも問題があると彼はとても怒ったのである。

    「清潔さ」に対するルールは大変厳しいものだった。生産に従事する従業員は洗浄、消毒されたオーバーオールの制服をその場で身につけ、女子社員は入社した初日から看護婦のような帽子を身につけることになり、後にこれが「伝統」になったのである。

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  • 第7話

    信頼性のトレードマーク「赤十字」をめぐって

    1895年頃、ジョンソン・エンド・ジョンソンの製品パッケージには、トレードマークとして赤十字のマークが使われていた。もちろんこれは米国赤十字との合意に基づいて使用されているものだったが、このシンボルマークが葉巻やウィスキーなど様々な商品に次第に乱用されるようになり、模倣品も現れるようになっていた。

    10年後、このように模倣品が氾濫する状況に対し、ロバート・ウッド・ジョンソンは多色刷りの印刷物を作り、書簡とともに全米の医師に送付した。そこには「模倣品があらわれるということは、オリジナル製品が優れていることを証明しています。商業主義に走る余り、手術における本質を見過ごさないようにして下さい」という主旨が書かれていた。このアイディアは見事に成功し、医薬品取扱業者から模倣品の購入をやめたという報告が相次いで寄せられたのだ。

    1897年にJ&Jは「レッドクロス・ノート」(写真)という月刊誌の発行を開始した。やがて、同誌には多くの医師から薬品に関するあらゆる種類の記事やコメントをはじめ、病気に関する最新の報告までが掲載されるようになった。

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  • 第8話

    ングセラーと短命を分けたもの

    ジョンソン・エンド・ジョンソンがジョンソン® ベビーパウダーを取り扱うようになったのは、全くの偶然からだった。

    1890年のある日、一人の医師がJ&Jに手紙をよこした。彼の患者のひとりが、当社の膏薬(外傷などにはるあぶら薬)を使用すると肌がひりひりするという訴えだった。フレデリック・バーネット・キルマー博士は肌の刺激を沈静するのにイタリアのタルクを原料にしたパウダーを患者に与えることを提案した。それから膏薬といっしょに小さなタルクの缶が添えられることになった。

    まもなく消費者からは、もっとパウダーをという要望が始まった。これがジョンソン® ベビーパウダーの誕生であり、世界中で最も知られ、長く用いられる製品の一つとなることとなった。”J&Jといえばジョンソン® ベビーパウダーが思い浮かぶ” という風に・・・。デリケートな香りは子供時代の幸福な気分を思い起こさせ、1世紀近い時を経てもまだそれに変わりはない。

    ジョンソン® ベビーパウダーとは裏腹に短命で終わった新製品に、ドイツ語で”白い歯”という意味の「ゾンワイス」というビン入りの練り歯磨きがあった。ゾンワイスには派手な宣伝活動が展開された。薬局には1ダース仕入れるごとに一つ、後に「ゾンワイス クロック」として大変有名な時計をおまけとして付けた。薬局ではその時計に自由に値段を付けて売ることができた。その後しばらくの間「ゾンワイス クロック」は練り歯磨きをはるかにしのぐ人気となった。

    その後ゾンワイスは世界で初めて”絞り出し型のチューブ”という画期的な容器で売り出された。にもかかわらず、市場では注目されることもなく、その存在は「ゾンワイス クロック」の影に隠れたまま、市場から消えることとなった。

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  • 第9話

    縫合糸と消毒の切っても切れない関係

    多くの医師が手術に使う縫い糸を直接薬局で買い求め、自分の診察室や患者の家で手術をしていた頃のことである。

    「感染」の存在が判明すると、あらゆる経路に疑いがかけられた。中でも傷口や切開部を閉じるために用いられた糸が、もっとも影響を与えていると考えられた。縫合糸は強くて体に同化するものでなければならず、適切な素材の選択そのものが、病気の治療を決定的に左右した。

    1865 年、ジョセフ・P・リスター博士は羊の腸でできた楽器の弦を縫合糸に使ってみて、大変うまくいくことを発見した。それは“カットグッド(腸線)”と言われ、消毒が非常に難しいものであった。消毒すればするほど、自然の特性が壊れる危険性があったのである。カットグッド縫合糸はジョンソン・エンド・ジョンソン創世期に誕生した製品であるが、縫合糸の品質工場とその消毒方法の果てしない努力はそこから始まった。

    最終ゴールは、消毒しても細く弾力があり、柔軟性に富んだ縫合糸であったので、本来の性質を変えてしまうような化学薬品には頼らなかった。そしてJ&Jは複雑な消毒方法を開発した。まずカットグッドを腐食剤につけ、次に杜松油(ネズ属の植物の実から絞った薬剤)に10日間つけておくというものであった。消毒された縫合糸は20%のアルコールが入ったガラスの薬ビンに入れて売られた。

    新しいカットグッドの縫合糸は、医師たちから絶大な評価を得た。その後、医師がJ&J製品の中から9種類のカットグッドと21種類のシルク糸を選べるようになるまでにそう時間はかからなかった。

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  • 第10話

    多くの赤ちゃんの命を育んだポリシー

    妊産婦や産科向けのキットはジョンソン・エンド・ジョンソン製品ラインの中でも重要な存在を占めるようになると、長期にわたってその地位を守りつづけている。新生児の多くが自宅で取り上げられていた時代、J&Jの分娩用製品は幾万の赤ちゃんの無事な誕生に大きな役割を果たした。

    当時は助産婦が赤ちゃんを取り上げるのが普通であったが、専門の教育を受けた人は少なく、出産には常に感染などを引き起こす危険が伴った。従って医師と助産婦の立会いのもとで出産できる妊婦は非常に幸運だったのである。

    J&Jは医師のアドバイスをもとに妊産婦・産科向け製品の開発を進めた。シンプソン博士の名前を付けたマタニティキットは薬局で3ドルで販売され、その中には産科用シート、コットン、ガーゼ、へその尾を結ぶ絹ひも、消毒用石鹸、モスリンの包帯などが入っていた。

    乳幼児キットは4ドルで売られていたが、中でも最も重要とされたのは、失明をも引き起こしかねない伝染病から乳幼児の目を守るための硝酸銀溶液とその取り扱い説明書であった。他の用具にも詳細な説明書が付けられたが、その注意事項のほとんどが産後、危険な時期にある母子がかかりやすい伝染病の予防を目的としていた。

    「全ての子供は安全に生まれ育つ権利がある」というスローガンが説明書の中で繰り返し引用された。J&Jは近代医学の到来に先立ち、出産時の危険性に対し絶え間ない警鐘を鳴らし続けたのである。

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  • 第11話

    ボランティア活動を支えた粋な計らい

    1898年、戦艦メイン号のハバナ湾沈没をきっかけに米西戦争が始まった。当時の社長ロバート・ウッド・ジョンソンはリチャード・ワスミーという一営業部員に手紙を送った。彼は戦地でボランティア活動を行っていたのである。

    「我々はあなたの行動を讃えるのみでなく、できる限りの援助を行いたい。あなたが戻ってくるまで会社はこれまで同様給与の支払いをしながら、席を空けて待っています。」という内容のものであった。これを受け取ったリチャード・ワスミーは大いに元気づけられ、戦地より自分の全顧客に対して手紙を送り、会社の寛大さを披露し、その後の変わらぬ愛顧を頼んだ。

    戦争の激化は工場の生産ラインをフル回転させた。そのころジョンソン・エンド・ジョンソンは、米国でも数少ない生綿から外科用包帯を加工する設備を持った。布製のストレッチャーなど新しく開発された外科手術用の製品が30万パックも生産された。J&J社員からの寄付金は10万ドルに上り、救急船USソレイス号はJ&Jの寄付した大量の医療用品をのせて出帆した。

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  • 第12話

    鉄道の普及が救急医療の発展に大きく関与

    救急医療については、1800年代後半にジョンソン・エンド・ジョンソンが着手するまではその処置法や使用製品など振り向かれることすらほとんどなかった。当時は大陸縦断鉄道を始めとして急速に鉄道が広がった時であり、その工事には常に多くの事故が伴っていた。これを、新しいビジネスチャンスと捉えたのがロバート・ウッド・ジョンソンであった。

    事故によるケガについて調査を進めるほど、彼は医療用品の必要性にますます確信を強めていった。そしてついに1890年、医師のアドバイスの下、常備救急箱第1号を駅に設置したのである。中には消毒液、応急用器具、医療用品などが説明書とともに入れられ、事故が起きた場合に直ちに使用できるようになっていた。最も懸念されたのは誤った手当により症状を悪化させることであったが、何も手を施されないよりは基本的な処置だけでも行うべきだという意見が大勢を占めた。

    J&Jはさらに効果的な応急処置に関する研究を重ね、10年後には初の救急医療のスタンダードを確立するに至った。フレデリック・バーネット・キルマー博士が「救急処置」の目的を「治療というよりも悪化を防ぐこと」と定義したことにより、その意義が広く世の中に定着していくことになった。

    J&Jはその後、ファーストエイドキットの生産ラインを鉄道からさらには農場、家庭、学校、会社向けにまで拡大し、多くの人々が緊急時に直ちに使用できる不可欠な常備品として提供していったのである。

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  • 第13話

    らも被災しながら、いち早く救援活動に着手

    1906年4月16日、サンフランシスコで大地震が勃発した。午前5時20分、マグニチュード8.3を記録したこの地震はサンフランシスコの大部分を崩壊させ、数十ヶ所で火災を引き起こした。ジョンソン・エンド・ジョンソンの主要代理店Waldron & Dietrichにも火の手は延びたが、社員はJ&J本部に救援物資の発送を緊急依頼した。そしてその日のうちに、本社を始めとするJ&Jの何ヶ所もの倉庫から鉄道貨車に製品が積み込まれ、被災地に向けて発送されたのである。

    火災は3日間にも及び、何千という人が負傷し、亡くなった人は452人にものぼった。最初に到着した救援物資はJ&Jからのものであり、やがて最も多くの製品を送った会社としてその評判が知れわたっていった。

    J&Jはまた、被災した薬局の復興のために100ドル以下の請求を全て破棄した。テキサスの大洪水時にも、薬局の製品を無料で取り替えたことがあったが、一連の行動は小売業者の間で確実にその名声を築き上げていった。結果として、会社の売上は7年間で100万ドルから約300万ドルまでに伸びることになった。

    一方、新しいアイデアは即、新製品として花開いていった。初代社長ロバート・ウッド・ジョンソンは営業組織の強化、新しいパッケージ、製品の品質という3つのマーケティング戦略にねらいを定めた。彼の品質へのこだわりは完璧さへの追求であり、妥協を許さないものであった。しかし、ロバートが達成した売上に異論を唱える者はいなかった。彼は日々の売上に目を通し、競合に情報が流れることに対しても敏感に対応したのである。

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  • 第14話

    会社の使命はヘルスケアという広い視野のもとに

    1906年、食品や医薬品の製造に関する規制を目的としたNational Pure Food & Drugs法が議会を通過した。ジョンソン・エンド・ジョンソンはその草案に大きな役割を果たしている。法が定められる以前には工場の大量生産によって新加工食品や医薬品の乱用が増え、心ない製造業者を出現させる背景があった。当時出版された2つの暴露小説“THE JUNGLE”“THE GREAT AMERICAN FRAUD”が火付け役となり、食品および医薬品規制の必要性が叫ばれ、ついには政府を動かすことになった。

    ルーズベルト大統領は法律制定後の管理をH.WILEYに任命し、その管理の評価には即座にJ&Jの科学部長であったフレデリック・バーネット・キルマー博士の意見が求められた。製品は政府の試験所でテストされ、基準に満たない劣等品は、後日地方でも食品検査官によって排除された。

    キルマー博士は後にこう回想している。「私たちの仕事はまさに教育活動であった。しかし、結果的にはそれが健康増進のための全般的な計画に至るほど、国中の衛生設備の大きな進歩を遂げることになった。」彼は、彼自身と会社の使命については、製品を超えたヘルスケアという広い視野でとらえていた。「私たちの部門は単なるコマーシャル・スピリットに支配されるものではない。常に純粋に科学的探求に従事し続けながら、株主への配慮、会社の利益に終始せず、“アート オブ ヒーリング(医術)”の進歩のために貢献するものである。」と述べている。

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  • 第15話

    偉大なリーダー亡き後の再出発

    1907年全米は世界恐慌に見舞われた。ジョンソン・エンド・ジョンソンは見事その嵐を乗り切ったどころか、世界最大の規模に工場を拡大した。1908年、RED CROSS COTTON MILLの増築の盛大な祝賀会の席でロバート・ウッド・ジョンソン社長は、新しい創傷被覆材の開発について全社員に改めて感謝し、J&J社員としての誇りを訴えた。そしてさらなる会社の繁栄と幸福を誓った。

    1910年のある朝、頑健であったロバートは突然体の不調を訴えた。7日後、家族に見守られて帰らぬ人となった。肝臓疾患であった。この突然の訃報に2500人余の社員の落胆は計り知れないものであった。偉大なリーダーシップの下、成長を続けてきたJ&Jであった。葬儀は市の歴史始まって以来の盛大なものとなった。

    ロバートの死後、弟のジェームス・ウッド・ジョンソンが後継者として任命された。「アンクル・ジミー」の愛称を持つ彼は就任にあたり、事業運営については兄の完全なる継承を約束した。一方、ロバートの息子のロバート・ウッド・ジョンソンJr.は高校を出ると周囲の反対を押し切ってJ&Jで働き始めた。彼は工場のいろいろな部署を経験し、多くの社員と親しくなっていった。中でもハンガリー移民の人々に人気があった。勤勉、忠実な彼らはやがてJ&Jの労働力の2/3を占めるまでになり、J&Jは“ハンガリー大学”と呼ばれたものだった。

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  • 第16話

    2代目社長の静かなるリーダーシップ

    ロバート・ウッド・ジョンソンの後を継いだジェームズ・ウッド・ジョンソンは、自身の言葉通りに兄の政策を継承した。ジェームズは兄より目立たない性格であったが、社員の尊敬に値する静かなリーダーシップを発揮した。最初に彼が手をつけた仕事の一つは、1906年に作られた厚生部門を充実させ、賃金制度を画期的に手厚くするものだった。社員の安全と健康を無視した粗末な労働条件に、国中の労働者が反対を唱えている時期、ジョンソン・エンド・ジョンソンは社員に対する処遇を次々に充実させていった。

    工場内には病院及び休養室ができ、医者、看護婦が社員の病気やけがにアドバイスをし、治療費は会社が負担した。結婚や家族の問題には法律相談やカウンセリングが行われ、社員の不慮の事態に備えて経済支援のための給付金の相互(積立)基金が設立された。

    その他、衛生学、体操、刺繍そして英語などのクラスができた。中でも1907年に発足した女性によるローレルクラブはバスケットボールチーム、グリークラブ、貸し出し図書館をつくる他、孤児院のチャリティーワークなども行っていった。工場労働者には買い上げた家を、安い家賃で社宅として貸与する住宅政策が取られた。夜勤者のためにはフランス人のシェフを雇い、暖かくておいしい夜食を提供して夜勤をより快適にするなどの工夫をした。またJ&Jは、年金および保険制度の導入を決めた最初の会社の一つでもあった。

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  • 第17話

    30年もの間愛され続けた、キドニープラスターの広告

    広告が米国で大きな力を持ちはじめたのは、第一次世界大戦前頃であった。戦争に入ると、やがて広告は民衆(人々)の愛国心を鼓舞する手段としてその役割を発揮した。こういった状況下での広告には、人の心に残るようなものが見当たらなかったのも当然であった。しかし、その中でミステリーと呼ばれたほどの成功した広告にジョンソン・エンド・ジョンソンのキドニープラスターがあった。

    「海辺に立った若い二人の男女。女性のウエストには男性の腕がかるくまわされている。コピーは“FEELS GOOD ON THE BACK”(「背中がとてもいい気持ち」)」

    即座に人々の心をつかんだこの広告は、ポスターとなって街中のドラッグストアの窓という窓に貼られた。そして信じられないことに、このコピーは写真とともに30年間も使われたのであった。

    やがて、J&Jの製品は国際市場で高い地位を獲得するようになった。国際的ビジネスを視野に入れて、インドでは赤十字製品をラクダに乗せ、北極では犬ぞりに、ドイツでは熱気球のバスケットに入れて運ぶ広告を展開した。できるだけ専門的な広告は抑え、赤十字の記章を付けた可愛らしいナースを主人公にした。

    J&Jの本拠地ではペンシルバニア鉄道近くに巨大な看板(写真)が立てられた。ライトアップされた看板は夜になると何マイルも先から見え、旅行者、特に鉄道の乗客にとってのランドマークとなっていった。後に、看板には戦時公債運動および食料管理のプログラムなどのような様々な運動を支持したスローガンが加えられるようになった。

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  • 第18話

    救急絆創膏『バンドエイド』® 誕生物語

    1920年、ジョンソン・エンド・ジョンソンの有名な製品「バンドエイド」® が誕生したのは、まったくの偶然だった。

    購買部でバイヤーをしていた28才のアール・ディクソンという社員は、新妻のジョセフィーヌがたいへんそそっかしく、料理をするたびにケガをすることに常々心を痛めていた。愛妻家のディクソンはそのたびに傷の手当てをしていたが、傷は絶えなかった。そこで彼は、妻がひとりでも手当てができるような絆創膏を考えついた。それは、医療用テープの中央にガーゼを付け、片手でもすぐに手当てができるというものだった。彼がこの発明を同僚に話すと、ぜひ上司に話すよう薦められた。

    「職場の仲間たちはこのコンセプトがとても気に入ったようだった」とディクソンは回想している。1921年に初めて製品化された「バンドエイド」® は幅9センチ、長さ54センチの必要に応じて切って使うものだった。初年度の売り上げは3,000ドルだったが、営業担当ははさみを持って診療所や薬局を回り、絆創膏を切りながらその便利さを実演して歩いた。その後、機械で今のような形態の「バンドエイド」® が百万枚単位で製造されるようになった。

    「バンドエイド」® は創業以来、最も大きい売り上げをあげる製品になった。ディクソンはそのアイデアで副社長になり、ジョセフィーヌの不器用さは後々まで語り継がれることになった。

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  • 第19話

    国際市場の開拓をいち早く見抜いたロバート・ウッド・ジョンソンJr.

    戦争の余波を受けながらもジョンソン・エンド・ジョンソンは生産レベルを落とすことなく、病院や一般消費者への製品供給を続ける。しかし、新たな成長の機会を求められていたことも事実だった。製造の現場から離れ、生まれつきセンスのあったセールスマーケティング部に異動していたロバート・ウッド・ジョンソンJr.は、そこで、将来を見据えた国際市場の開拓が急務であることを確信した。

    一方そのころの米国には、孤立主義に対する強い支持があった。戦争の犠牲者は膨大で、多くの国民は「米国は無関係にもかかわらず戦争に引きずり込まれ、ひどい報いを受けた」と感じていたのである。孤立主義支持者は「米国の面倒は米国が見るべきである。外国人の面倒は外国人自身が見よ」と宣言。こうした政治的論争は別にしても、当時、海外へのビジネス拡大はリスクが大きく、採算の見込みはまったくないとされていた。事実、当時社長であったジェームズ・ウッド・ジョンソンを含めた他の役員も、国内の代理店と卸売り業者のネットワーク拡大のみを支持していたのである。

    ところがこの時期にロバートただひとりが、「J&Jは国際的製造体制を持つべきだ」と信じていた。1922年秋、彼は情報収集のための大英帝国視察を役員会に諮る。「戯れだ」と非難されつつもねばり強い説得を重ね、ついにこの提案が了承された。

    数ヶ月間にわたって世界のビジネス状況のリサーチを行った後、ロバートは弟セワードとともに1923年10月1日SSオリンピアに乗船してニューヨークを発った。彼らは12カ国を訪問し、健康分野における多くの要人に精力的に面会する。その中でJ&Jの経営陣に世界のマーケットの潜在的可能性を報告。半年後の春帰国するまでに、今まで以上に国際的製造設備の必要性を確信する。そして1924年、経営陣を説き伏せ、ついにロンドン郊外ソローに工場を開設。自ら指揮を執ることになったのである。

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  • 第20話

    企業イメージを作り上げたジョンソン®ベビーパウダー

    ジョンソン® ベビーパウダーほど、ジョンソン・エンド・ジョンソンのイメージアップに貢献した製品があっただろうか。その名を聞いただけで赤ちゃんとお母さんのやさしい情景が浮かび、そのデリケートな香りは、あらゆるコンシューマー製品の中にあっても、すぐにジョンソン® ベビーパウダーと分かるものだった。

    J&Jは、ジョンソン® ベビーパウダーの発売を機に育児分野でのビジネスを拡大していったが、これらの成功はジョンソン® ベビーパウダーが強く消費者に受けいれられたことが最大の要因だった。今後たとえ100年たってもJ&Jのジョンソン® ベビーパウダーは、逞しいバイタリティと販売力を発揮しながらあらゆる年代層からの絶対的な支持を得ていることだろう。

    ジョンソン® ベビーパウダーが、消費者に本格的に受け入れられたのは発売から30年経った第一次世界大戦直後のことである。当時J&Jは、会社設立以来の大規模な広告キャンペーンを展開した。 あどけない笑顔の赤ちゃんが並んだ4色刷り広告を主要な家庭雑誌に繰り返し掲載した。何千というドラッグストアのディスプレイウィンドウには、赤ちゃんたちの拡大写真が飾られた。そして、店内のカウンターには次のように書かれたショウカードがお客様をお迎えした。

    赤ちゃんには最高の製品を

    あなたの赤ちゃんは、私たちの大切なお客様です。かわいい赤ちゃんの健康と幸せには最高のものだけが値します。このお店は赤ちゃん用品を購入されるお母様方から絶対の信頼をいただいております。ところで、あなたはJ&J製品と共にジョンソン® ベビーパウダーを使っていますか。赤ちゃんにとって、あなたにとっても最高のものを。

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  • 第21話

    劣悪な労働環境を改善したロバート・ウッド・ジョンソンJr

    ロバート・ウッド・ジョンソンJr.はビジネスの経験を広げるにつれ、自らの役割はマネジメントにあるのではないかと強く思いはじめた。有能なビジネスマンに成長し、すでに先輩たちの尊敬も得ていた彼は1926年、世界で最も斬新な繊維工場の建設を計画した。

    ジョンソン・エンド・ジョンソンはすでに医療用繊維製品の主要な製造業者であり、製品の大半は外科用包帯であった。当時の繊維工場は劣悪な労働環境の中にあった。長い土地探しの末、ジョージア州ゲインズビル近くに美しい土地を購入することができた。会社は一階建ての斬新な工場に加え、従業員用のモダンな家200棟、学校、教会、医療用設備の整った村の建設を発表した。多くの人はロバートの約束を疑ったものである。しかし、建設が終わったとき、訪れた記者は「ジョージアの設備は現代のコットンミル(cotton mill)の理想と言える」と絶賛した。

    チコピービレッジ(Chicopee Village)として知られるようになったその村には、31程のバリエーションのあるモダンなレンガ造りの家々が優雅に曲線を描いた眺めの良いストリートに点在していた。ノースイーストジョージアで、室内の配管、電気、温水設備を備えた最初の家と工場は、人々の生活を変えた。

    工場のオープンを祝う野外大宴会で、人々はロバートに銀のボウルと水差しをプレゼントした。彼の感謝の意は、彼自身のマネジメントを喚起することで表明した。 「市民の方々にこの善意と信頼に値し続けるよう私たちは自身を導いていきたい。」 その後ロバートは100以上の工場とオフィスビルを建てながら、「工場は美しく! "Factories Can Be Beautiful"」運動を推進していった。

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  • 第22話

    史上最悪の大恐慌をも切り抜けた企業力

    狂騒の1920年代が終わりに近づくにつれ、大恐慌の暗雲が次第に国を覆い始めた。1928年夏の終わりになって、工業生産および消費者の購買力が落ちてくると、ロバート・ウッド・ジョンソンJr.は経営陣に大幅な経費削減を求めた。

    のちに暗黒の木曜日として知られるようになる10月29日、株式市場が崩壊した。株価の暴落は400億ドルに達し、国は大恐慌に見舞われた。失業率は25%にも昇り、仕事のない無数の人々がスープの無料配布に列をつくった。

    1930 年2月、ロバートは副社長兼ジェネラルマネージャーとなった。恐慌到来後数カ月で多くの会社が倒産した。押し寄せる脅威に直面した彼は、ワークシフトの短縮、土曜出勤の廃止を実施し、生産部内の社員には1ヶ月に2回、3日間の休日を取らせるなどの手を打った。また。彼も含めた役員の給与を 15%削減した。これらは他の会社に比べれば穏和なものであったが、恐慌の間、ジョンソン・エンド・ジョンソンはいかなるビジネスも失わずに済んだ。それどころかロバートは、新たなボーナスシステムを導入したのである。

    社員を激励する一方で、彼は取締役会で苦言を呈した。「私はこの会がJ&Jにとって有効に機能し始めることを望んでいる。そのためにはどんな提言をも歓迎する。直面する問題を解決するための討議の場において、いまだこの会はその真価を発揮していない。これは株主の責任かもしれない。しかしそうだとすれば何らかの具申提案があっても然るべきではないのか。」株主とはもちろん彼自身と経営陣を指していた。

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  • 第23話

    Decentralization(分権経営)の確立

    不況のさなかにもかかわらずジョンソン・エンド・ジョンソンの新製品は順調に増え続け、常に消費者に好評であった。1943年には、ニューブランズウィック以外で国内初の大きな工場がシカゴに建てられた。この工場はまた、J&Jの経営方針の一つとしていたDecentralzation---ビジネスをマネジメントしやすいサイズに分権化する---を反映したものであった。

    かつてロバート・ウッド・ジョンソンJr.は、分権経営のメリットを確信するに至ったある出来事についてかたった事がある。救急絆創膏製造の新方式が開発されたとき、工程の初期段階に問題が発生した。原因追求のため製造に携わる責任者を招集したところ、17人もの人が現れた。愕然としたロバートは「問題はわかった。介在する人間が多すぎるのだ。」そして「会議は終了。」と、会議を始まらないうちに終わらせてしまったのである。

    その後、彼は責任者を一人だけ任命し、問題は見事に解決された。この一件以来、ロバートはビジネスを運営する最善の方法は分権化であることを確信した。この信念は後にJ&Jの"Family of Companies"として発展し、広く知られるようになった。

    ロバートが分権主義にこだわったもう一つの理由は「人」にある。「社員はその仕事を正当に認められ、尊重されなければならない。組織が小さくなればより多くの人が正当な評価を受けることができる。」

    時代と共にロバートは最も先進的な分権経営の第一人者となり、J&Jはそのよい実例となった。 多くの会社が様々な形で誕生した。

    かつて生産ラインの一部であったスーチャー(縫合製品)は1918年のVan Home and Sawtellの買収に始まりJohnson Suture Corporationを経て、さらにEthicon Inc.と発展した。Ortho Phermaceutical Corp.のように会社の一研究室から会社へと成長したものも多い。同じ方針は急速な国外進出でも展開され、各地に次々と小さな輸入代理店が設立された。そしてビジネスの拡張に伴いファミリーカンパニーとして成長していったのである。

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  • 第24話

    社会的意義のある企業の存在をアピール

    ロバート・ウッド・ジョンソンJr.は若くして経営者になった当初から、社員に対する責任を強く感じていた。同時に製品の品質がジョンソン・エンド・ジョンソンの継続的な成功への大きな要因となることも確信していた。

    1935年、大恐慌のどん底にあった中で、彼は企業の責任範囲を社会にまで拡大した見解を発表した。

    ロバートは全米のリーダー的ビジネスマンにあてた "Try Reality" と題したメッセージの中で、賃金・勤務時間・税制の改革を訴えている。そして彼の提唱する"新企業哲学"を彼らに次のように呼びかけた。

    「過去数年間の苦しみの中で、人々は本物の経済的貢献と社会的価値を生み出す企業のみが成功する権利を持つということを知り、それを確信してしまった。恒常的な成功は、より高尚な企業哲学を遵守していくことによってのみ可能になる。顧客への奉仕が一番に、社員とマネジメントに対する奉仕が次に、株主が最後にくるという事を認識し、社会に対する包括的な責任を受け入れそれを全うすることが、企業のより高度な利益の追求方法なのだ。」

    1943年、彼は同じ4つの責任--顧客、社員、マネジメントと株主への責任--をもとに「我が信条(Our Credo)」を草稿し、それを日々の経営哲学とした。 この「我が信条(Our Credo)」には後に、5番目の地域社会への責任が新たに加えられ、経営の社会的責任が認識されていない時代において、その革新的なアプローチは広く賞賛され多くの会社でモデルとされた。

    ロバートの経営哲学の重要な点は、社会的責任を果たす経営とビジネスの成功を関連づけている点である。「組織は、官営、民営を問わず、人々が求め、信用し、認めているから存在し得る。企業はもはや私有のものでなく、それ自体が社会的意義を持っている。その企業活動は企業自身のためであると同時に人々のためであり、両方に対してその責任を負わねばならない。」

    四十数年後、彼の経営哲学は、2回のタイレノール事件という厳しい試験を受けるが、「我が信条(Our Credo)」はこの悲劇に対して責任ある対処法を示したのである。

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  • 第25話

    人の心を捉える広告戦略

    事業の伸展とともに、「ジョンソン・エンド・ジョンソンは、消費者向け製品のマーケティング力に優れ、創意豊かな広告を創出する会社」という評価が高まった。1940年代の後半には、中でも2つの斬新な宣伝が話題をさらい、この評判をますます加速させた。

    1つは生理用品のブランド『 Modess 』の広告で、この製品に関心の高かったロバート・ウッド・ジョンソンJr.は広告戦略の会議に頻繁に出席した。彼はそこで女性達の心を捉えるファッション性の高い広告を打ち出すよう指示した。そのために、デザイナーによるオリジナルの衣装、モデル、セッティング、カメラマンなどすべてが、これ迄の雑誌広告にまったく見られなかった洒落たものでなければならなかったのである。

    このロバートの言葉を得て、プロダクトマネージャー、広告代理店はファッション性をテーマとした新機軸を追求した。ファッションデザイン事務所が 『 Modess』のために多くのドレスをデザインし、有名なモデル達が著名なカメラマン達により撮影された。背景にはニューヨークの高級アパート、ヨーロッパの宮殿、ベニスの運河、スイスの冬山、世界各地の美術館等が選ばれた。すべてに一流をそろえた『 Modess 』キャンペーンはすぐに大きな反響を呼び、 後に「過去もっとも優れた100の広告」に選ばれるほどで、『 Modess 』の売り上げは飛躍的に伸びた。

    もう一つの広告は、「バンドエイド」® やガーゼ等のファースト・エイド製品のキャンペーンである。これはあどけない子供たちを主人公にした絵のシリーズであった。このシリーズの画家はグラディス・ロックモア・デイヴィスという女流アーティストで、アメリカの広告業界は「初めて有名なアーティストの絵が広告のテーマに使われた」としてこの企画を絶賛した。

    シリーズ最初の絵はライフ誌などに掲載され、これを見た読者からは「リプリントが欲しい」という希望が殺到した。J&Jはこれらのリクエストに応じ、彼女の絵はアメリカ中の病院の看護婦室、医師の事務所やキッチンの壁を飾るようになった。このシリーズは2年間にわたって15回続き、キャンペーンの成功に大きく貢献した。

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  • 第26話

    光り輝くものすべてがダイヤモンドにあらず 救急絆創膏のすべてが『バンドエイド』®にあらず

    愛妻の台所仕事での切り傷を気遣った一社員のアイデアが実を結び、1920年「バンドエイド」® が誕生した。その後40年間、消費者向け製品としては市場最も華麗なサクセスストーリーといわれる歩みを続けた。最初の製品は18インチ(約46cm)の粘着材付き包帯で、使うたびハサミで必要な長さにきる必要があった。

    その後、一枚ずつの使いやすいサイズに裁断する機械が導入されると需要も上向き、競合製品が次々出現した。特に 1930年代にはジョンソン・エンド・ジョンソンとバウアー・エンド・ブラックの有力2社の間で"どちらの製品が優るか"をめぐって広告合戦が繰り広げられた。「J&Jの「バンドエイド」® 製品は速くきれいにくっつく」というアピールが消費者の心を捉えた。1943年に両者は包帯のパッドに当時の新薬であるサルファ剤を塗ったタイプを発売し、再び対決が激化した。この時J&Jは「バンドエイド」® の商標をクローズアップしたメッセージで広告合戦を乗り切った。

    ”光り輝くものすべてがダイヤモンドにあらず 救急絆創膏すべてが「バンドエイド」® にあらず”

    1951 年に両者はプラスティックの接着絆創膏を発売し、売り上げは急上昇した。「バンドエイド」® の「スーパースティック」に対してバウアー・エンド・ブラック社は子供向けにカラー製品を出し、J&Jもこれに対抗してカラフルな絆創膏を組み合わせた「「バンドエイド」® スターズ・エンド・ストリップス」で応戦した。遂には若者たちの間で傷もないのにカラー絆創膏をする者が続出し、親たちは目くじらを立て始めたが、そのうちに目新しさがなくなってこの流行は下火になった。

    カラー絆創膏に続く次の流行は、J&Jが導入した石膏材で作った色のついたギブスであった。入院中の子供にはとりわけ喜ばれた。しかし、色付きのギブスは食品系の染料の色が落ちてベッドのシーツが染まってしまうため、早々と撤退せざるを得なかった。

    1958 年の「バンドエイド」® 肌色タイプ「シア・ストリップス」の発売は「バンドエイド」® をハイテクの世界に引き入れた。文字どおり数百の改良が行われ、J&Jはその改良毎に市場のリーダーシップを強めた。特大型から指先用までのあらゆる形のサイズの製品に加え、通気性タイプやメッシュタイプ、医薬品タイプや伸縮タイプまでいろいろなバリエーションを揃えた。「バンドエイド」® 透明タイプ「クリアーストリップス」はいろいろな地肌に貼っても目立たないことが特徴となった。”目立たない”製品が目立った成功となり、救急絆創膏の歴史に輝かしい1ページを加えた。

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  • 第27話

    医療の進歩につれ複雑化する病院管理にも貢献

    ジョンソン・エンド・ジョンソンは、創業の初期から病院との緊密な関係を保ち、新しい病院がオープンするたびに早いうちから患者のケアの改善と安全の確保について病院と協議した。協議では"伝染"と"患者同士の感染"というかねてからの重要課題に継続的に焦点が当てられたが、J&Jは長年の経験からこの二つの問題についてかなりの知識を集積していた。

    第二次世界大戦も終わりを告げる頃、"奇跡の薬"といわれた抗生物質を始めとして病院へのディスポーザブル製品の導入など、医学界の画期的な進歩がめざましかった。

    多くの病院がリネンや手術着を洗濯して再使用していた当時、開発に10年間をかけたJ&Jの不織布はその実用性と安全性で新世代の製品となった。

    ディスポーザブル製品の到来は病院内の無菌化を促進したが、そういったコンセプトの多くはJ&Jの研究の成果であった。これらの情報をプロの医師に提供するためにJ&Jは広範囲の教育プログラムを実施していった。

    医学の進歩とともに、病院の管理はますます複雑になった。当時はまだ病院管理についてのトレーニングもおざなりで、この状態を憂いたロバート・ウッド・ジョンソンJr.は、1943年にノースウェスタン大学にアメリカで最初の病院管理のトレーニングプログラムを開設する資金を寄付した。彼はまた病院の組織に関するガイドラインを提唱し、外科、産科、小児科、放射線科など現在一般に見られる専門別の組織編成を慣行化することに大きく貢献した。

    医師たちは彼の貢献に多くの栄誉で報いたが、その一つが米国外科学会から専門家以外に初めて授与された名誉フェローシップであり、もう一つはイギリスの王立外科大学からアメリカ人に初めて贈られたCourt of Patrons(特別支援者グループ)のメンバーシップであった。

    ロバート自身も幾度も病院の患者となり、その都度患者の立場から考えさせられる事が多かった。一日にペニシリンの注射を4本も打たれ、看護婦が毎回「前はどこに打ちましたか」と聞くのに悩まされた彼は、マーク用の消えない鉛筆をとりよせ、注射の跡に円を書き日付を入れるようにした。

    別の機会に入院したロバートは看護婦のトレーニング・プログラムを改善する手助けをした。それを2週間のうちに成し遂げ、退院時には教育施設のためにメディカル・ライブラリーを作ることを約束した。入院はいつも高いものについたが、彼はこういう成果をあげることに満足していた。

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  • 第28話

    驚異的な成功を収めた鎮痛剤『タイレノール』®

    ジョンソン・エンド・ジョンソングループのマクニール・コンシューマー・ヘルスケア・カンパニーは、米国で最大手の一般用医薬品会社であり、その主力製品であるタイレノール®は、全世界での年間売上高が10億ドルに上る鎮痛剤のトップブランドである。

    この鎮痛剤タイレノール®の成功は43年前、米国において処方薬として登場した時から始まる。 当初は内科医によって用いられていた医療用医薬品であったが、一般薬として開発、慎重にマーケット・サーベイが繰り返された後、1975年に市場に投入された。J&Jは製品を上市すると同時にTVや印刷物、販売プロモーションなどを通して、消費者への強力な販売努力を行った。

    既に医師や薬剤師から高い評価を得ていたことも拍車となり、市場に登場した6年後の1981年には、タイレノール®の総売り上げは鎮痛剤市場の35%以上を占めるという驚異的な成功をもたらした。

    タイレノール®の有効成分のアセトアミノフェンは、痛みを和らげ、熱を下げるのに効果がある。アセトアミノフェンとアスピリンは消費者が処方箋なしで入手できる優れた鎮痛剤であり、おびただしい臨床研究の結果、これらの成分が痛みを緩和し解熱効果のあることが確認されている。しかし、アスピリンの使用においてはシリアスな副作用を伴う可能性があることから、アセトアミノフェンを主成分とするタイレノール®は、その心配のない製品として医療専門家や消費者に理解が広まり、売り上げの伸長に繋がっていった。

    1982年と1986年に、全米を震撼させるタイレノール®事件が発生。J&Jとマクニール社は重大な危機に直面した。 しかし、当時のJ&Jのジェームズ・E・バークは、単なる危機管理として対応することに終わらず、「消費者への責任」を第一に考えた体制をとった。 これはJ&Jの企業理念である「我が信条(Our Credo)」の第一の責任に立ち返った意思決定であった。

    J&Jのこの事件における対応は、一般消費者をはじめ政府・産業界からも、これまで以上に高く評価された。そして全社員が一丸となった再市場努力の結果、予想をはるかに超える速さで市場を回復していったことはいうまでもない。

    初めて市場に登場した当時、1種類であった鎮痛剤タイレノール®は、今日消費者のニーズに応えた多彩な服用スタイルや剤形などイノベーティブな製品を取り揃え、世界市場に提供されている。

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  • 第29話

    触れることは、育むこと

    ジョンソン® ベビーパウダーの広告は、常にジョンソン・エンド・ジョンソンの広告塔として重要な役割を担った。長年にわたるこの広告はJ&Jへのゆるぎない信用を創出しながら、ジョンソン® ベビーパウダーを世界で最も広く愛用されるベビー製品への成長させていった。

    1960年半ばに入り、母親と新生児の間に生まれる感情交流の重要性が取り上げられると、ジョンソン® ベビーパウダーの広告は一層脚光を浴びることになった。母子の感情交流についての理解が広がるにつれ、子供への愛を身体的触れ合いを通して満たしたいという母親の気持ちに応えるベビー製品が大きくクローズアップされてきた。おしめを替えたり、お風呂に入れたりすることが、パウダーやオイル、ローションを使用することで、母親の赤ちゃんに触れ抱きしめるという満足感をさらに高めた。

    注目すべきことは、この関係について研究が進められると、母子の触れ合いが乳幼児の健康状態に、そして母親も同様によい効果をもたらすということが明白になったことである。

    J&Jは、母親と乳幼児の関係をテーマとした小児科医、精神科医、心理学者や医療専門家などで構成される研究会を発足した。J&Jはその後も医療専門家たちが乳幼児の成長発達に重要であると認知している、この "Naturing" の研究を支援し続けている。

    このような医学的認識は一世代も前にJ&Jが先鞭をつけた科学的研究によって触発されたものである。この認識から生じたJ&Jの広告は "The World of Feeling" と呼ばれた。そして身体的に触れ合うことが母親と赤ちゃん双方にとって重要であるという理解が、ベビー製品の継続的な成功と、世界各国の存在するJ&Jの企業イメージの基盤となっているのである。

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  • 第30話

    会社創立の地 ニューブランズウィック

    新しい本部ビルの建設地を巡って、マネジメントの間では数年にわたって議論がなされた。第二次世界大戦後、ニューブランズウィック(以下NBK)はアメリカの多くの町同様、深刻な経済疲弊に喘いでいた。小売業は巨大なショッピングモールの影響を受け、町は寂れた外観を帯び始めた。NBKはジョンソン・エンド・ジョンソンにとって1886年の創立以来の地ではあるものの、ここに留まることは、町が抱える諸問題を背負うことになるだろうと考えられた。

    たくさんの候補地が挙がった。当時の会長兼最高経営責任者ディック・セラーは、もしJ&JがNBKを離れたら町の復興に懸ける住民の希望は一切失われる。そして、「我が信条」に謳われている信条のひとつは地域社会に対する責任であった。

    会長としてセラーはJ&Jがこの町に留まり新しい本部を建設するという決断を下し、取締役を説き伏せた。

    1978年の春、発表された決定は、何よりNBKの住民に大きな心理的励ましとなった。セラーは財務委員会の委員長と取締役に残り会長職を退いた。そして、NBK復興運動のリーダーを個人的に引き受ける決心をした。引退後の10年間は、夢と空想に満ちた運動に専念した。

    セラーは、ニューブランズウィック・トゥモローと称した方針策定連合を組織し、企業家、研究者、労働者、地域社会、そして宗教者たちへの参画を説いた。彼が最も頼りにしたのは、1975年のニューブランズウィック・トゥモロー発足時から委員長を務め、重要な役割を担ってきたJ&Jの役員、ジョン・J・ヘルドリックであった。

    二人はともに気の遠くなるほど時間のかかる再建に手をつけた。彼らは町全体の復興には新しい建物と小売業の流入にも増して必要なものがあると感じていた。それは町が荒廃し再建への希望を失いかけている地域住民の弛緩した精神を活気づける手段であった。

    続く10年間には驚くべき成果が生み出された。商業地区の変貌は劇的でさえあった。総額3億ドルにのぼる新しい建設工事が、荒廃した町並みを最新の小売店やオフィス街へと刷新していった。

    1986年までの復興期間には、人口5万人の町に4,000もの仕事を創出した。300万ドルの年間歳入により住民は快適なサービスを受けることができた。資産価値は上がり、人々は住まいや界隈の外観に誇りを持つようになった。

    ひとたび経済発展の勢いがつくと、ニューブランズウィック・トゥモローは復興の優先順位を生活の質の向上に移し、健康管理、教育、職業訓練などのプログラムが設けられた。そして資金援助と専門家の関わりを通して、J&Jは現在もリーダーシップの役割を担いつづけている。

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  • 第31話

    成長を支えた二つの経営スタイル

    創業以来、記録的な成長を続けていたジョンソン・エンド・ジョンソンは、1976年にはアメリカで最も成功した会社の一つとして広く認識されていた。この年、ジェームズ・E・バークが51歳で4代目の会長兼CEOに、デビッド・R・クレアが社長兼EC(Executive Comittee)チェアマンに就任した。

    世の中は、消費者の要求水準の高まりと、予防、早期発見、治療への新しいアプローチを可能にする技術革新により、医療の発展をリードしながら、なおかつJ&Jが将来においても競争力を保ちつづけるということが、この新しい経営陣にとって大きな挑戦となった。

    二人は研究・開発に注力することを決意し、1978年、科学技術部門の本部として"COSAT(The Corporation Office of Science and Technology)"を設立した。それ以降、研究・開発費は4倍の4億ドルを軽く超え、その金額は全米の会社で第18位、ヘルスケア産業では第1位となった。

    J&Jは自らを研究・開発型企業と位置付けた。同時に合併、新領域の開拓も積極的に行った。その結果、最も多くの製品群を有し、すべての診療科に対応する唯一のヘルスケア企業としての地位を確立したのだった。

    1976年からの10年間、J&Jは劇的に成長した。世界中のグループ会社の数はその間に2倍となり、1986年には売上高が70億ドルにのぼった。その売上の半分は市場でナンバー・ワンを制覇する製品によるものであった。

    51カ国160社それぞれに新しい経営スタイルがもたらされた。バーク会長の課題に対するアプローチの方法はディスカッション型であった。世界中のJ&Jにその手法が奨励され、各国の組織力が活性化された。一方チェアマンとして経営責任を負っていたクレアは分析型だった。二人のアプローチは全く異なっていたが、そのことが相乗効果をもたらした。

    また、こういった変化の中でも経営手法の伝統的なところは守られ、バーク会長はよくこう発言した。「一つの企業として継続して業績をあげられているのは、われわれ独自の分権経営、「我が信条(Our Credo)」の中に脈打つ倫理規律、長期的視野に立った戦略によるものと確信している。」

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  • 第32話

    思想と理想を礎(いしずえ)に

    ジョンソン・エンド・ジョンソンのさまざまな取り組みの中でも1930年半ばに着手し始めた一連の近代的なプラント建設ほど世間の人たちにジョンソン・エンド・ジョンソンの経営哲学が明瞭に写ったものはない。後には、もちろん、近代的な製造工場は珍しいものでなくなるのだが、当時は、アメリカのほとんどの製造現場は味気ない壁に覆われたさえない施設で、多くは時代遅れで安全性に問題があった。

    1934年ジョンソン・エンド・ジョンソンは、消費者向け製品を扱う関連会社のために新しいプラントを建設することになった。ロバート・ウッド・ジョンソンJr.は、斬新な102階建てのエンパイヤステートビルを建て終えたばかりのShreve Lamb, Harmon建築会社に依頼し、周囲を驚かせた。超高層ビルの建築家は、ロバートが平屋建ての建物を思い描いていることを知り、幾分困惑した。ロバートは最初の設計を自分の建築スタッフによって修正させ、それに自分自身のアイデアを加えた。

    その後数年の間にジョンソン・エンド・ジョンソンはニュージャージーの中心部に最新のプラントを次々と建築し始めた。際立って魅力的な施設を建設するというジョンソン・エンド・ジョンソン伝説が確立し始めた。

    すべての建物はすっきりとした外観で、実に見事なほど機能的であった。注目すべき最も重要なことは、それが数百エイカーを越える広大ですばらしい眺望の敷地に建設されたことである。従業員が牧歌的な風景を満喫できるよう薄い色のガラスが一面に施された。製造部は明るく空調も整備された。

    贅沢なロビーや受付は映画のセットのようであった。従業員はロビーや入り口を積極的に利用することが奨励された。こういったことは自分たち自身のプラントであるという意識を高めることになった。

    なぜ巨額を投じ、このような質の高いプラントを建設するのかと訊ねられたロバートは、こう答えた。「これは長い目で見れば、決して高い出費ではないでしょう。従業員たちは職場に誇りを持つようになり士気があがります。これにより、高い生産性と高品質の製品が保証されるのです。また、プラントは地域社会の財産でもあります。当社が低い水準に甘んじていればこういったことは有りえなかったでしょう。」

    ロバートは新しいプラントのオープニングセレモニーにおいて、それを最も適切に言い表した。

    「私たちは皆さんが働く建物を造っているだけではなく、社会の手本も築いているのです。私たちは石と鉄を組み立てているだけではなく、思想と理想をも築き上げているのです。」

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  • 第33話

    引き継がれる経営スタイルと企業文化

    1963年の春、70歳のロバート・ウッド・ジョンソンJr.は、会長兼最高経営責任者の地位を退くことを決意した。53年間に及ぶ彼の存在はジョンソン・エンド・ジョンソンに多大な影響を及ぼした。在籍期間のうち31年間を社長兼会長として努めた。ロバートは彼が辞めることで会社が混乱するようなことがないようにしようと決心した。

    彼は細心の注意を払ってフィリップ・B・ホフマンを後継者に選び、鍛えた。ホフマンはアイオワの薬剤師の息子で、大学を卒業した翌年、発送係として1931年に入社した。その後彼は営業職に就いてから頭角をあらわし始めた。彼のアグレッシブで異彩を払った仕事のやり方にロバートは強い印象を受けた。

    ホフマンはオーソの家族計画とエチコンの外科用手術糸のビジネスを成功に導いた。取締会の会長職はホフマンに、そして社長兼エグゼクティブコミティの委員長はグスタフ・O・レインハードによって引き継がれた。

    ロバートはその長い経歴の間ずっと、会社の経営スタイルの確立と文化の醸成に尽くした。多くの人がロバート不在のJ&Jがどんな風になってしまうのかと懸念した。しかし、ロバートの思惑通り経営に顕著な違いは見られなかった。

    ホフマンのリーダーシップの下、会社の売上は6年間で5億ドルから10億ドル以上へと2倍に跳ね上がった。1970年に 10億ドルの目標は達成され、引退が差し迫ったレインハードへのはなむけとなった。レインハードの洞察力に富む財務管理は、何十年もの間、会社の成長に大きく貢献した。ロバートはジョークでよく彼のことを「けちのレインハード」と言ったものだった。しかし彼は最も優秀な財務担当者であった。レインハードの努力によって、将来の成長に必要な財源は確保できたのである。

    ロバートは正式に退任したが、経営の主流から完全に離れることはできなかった。彼は財務委員会の委員長の肩書きで役員会に残り、その立場で会社の財務方針について助言した。彼はよくドラッグストアやスーパーマーケットを視察していたので、マーケティングや広告についてもよく相談を受けていた。

    店を訪れると、ロバートはJ&Jの製品が競合と比べてどうか評価し、自分の提案を記したメモをマーケティング部に送りつけた。ロバートはパッケージと広告に対して慧眼があり、彼の指摘の多くが的を得ていたので変更する結果となった。

    もはや日々の経営に関わらなくなったとはいえ、ロバートは退いた会社のことを常に気に懸けていた。彼はかつてこのように語っている。「私が残そうとしているのはお金ではなくビジネスなのです。J&Jらしいビジネスをそのまま完全な状態にしておくことが私にとって重要なことなのです。」

    この意味において、ロバートは決して会社を離れることはなかった。

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  • 第34話

    「我が信条」の起草者、ロバート・ウッド・ジョンソンの素顔

    1968年1月30日、ニューヨークのルーズベルト病院にてロバート・ウッド・ジョンソンJr.が他界した。たくさんの人が彼の人生や偉業に思いを馳せたが、ロバートという人物を一言で表すのは、生前と同じく困難なことであった。彼は多才であり、何事においても精力的で、休むことを知らず、率直で、型にはまらない人物であった。
    病院で最期の日を迎えようとしていたロバートが、新しいタイプの病院用ベッドの設計を考案し、その考えを披露した時には、医療スタッフは彼の強さと断固たる意志に驚かされた。病院のベッドが不快で、改善したいといつも思っていたと、彼は説明したのだった。

    ロバートは米国で最も裕福な実業家の一人でありながら、労働者階級には友人のように思われていた。彼は、労働者に代わって、賃上げ、労働時間短縮、清潔で近代的な工場などの実現、そして全ての労働者に対する人間としての尊厳を高めるために闘った。その結果、大勢の人が彼を友人と慕うようになっていた。彼の遺書が公開され、遺産の大部分に当たる12億ドルが、米国医療の発展のために、Robert Wood Johnson Foundation(ロバート・ウッド・ロバート・ウッド・ジョンソン財団)に寄付されたことが明らかとなった。ニューブランズウィックの質素な家を本部としていた小さな財団が、突如として、米国第二の規模の、医療の発展に注力する団体としては最大規模の財団となったのである。

    社会へ寛大な贈り物をしたことから、ロバートは人道主義者として人々の記憶に残るだろう。そのため、ビジネスリーダー、公務員、作家、自然保護論者、また政府の仕事に携わったという彼の一面は隠れてしまいがちである。同様に、病院管理、大量輸送や、海洋レース、飛行機操縦、その他様々な趣味の分野においても、彼の専門的見解が役立ったことについては余り知られていない。アメリカ合衆国下院の場において、ロバートは、「人々に対する愛情と同じくらい深い愛情をアメリカに対しても抱いている愛国者」という言葉で議員から賞賛を浴びたのであった。

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  • 第35話

    第1回クレドー・チャレンジ・ミーティングはこうして生まれた

    1973年4月、35年前セールスマンとしてジョンソン・エンド・ジョンソンに入社したリチャード・B・セラーズが、取締役会の会長兼 CEOに就任した。一方、社長兼エグゼクティブ・コミッティ委員長には、20年前に入社し、マーケティング部門で出世してきたジェームズ・E・バークが就任した。インフレ、景気後退、エネルギー不足などの影響で困難な問題も起こったが、セラーズと彼のマネジメントチームは、会社の歴史的成長率を維持することが出来た。1973年から1976年までの間に、ワールドワイドの売上は10億ドル近く増え、利益は平均で毎年14%以上増加した。新しいグループ会社もいくつか設立された。セラーズは、J&Jの世界中のマネジメントを結び付け、分社分権化組織としての自主性を脅かすことなく、より結束したグループになる様に尽力した。

    1975年、海外で不正支出の問題がいくつか発覚したことにより、米国に本社を置く企業の間で、ビジネス倫理や商習慣の問題が注目を浴びるようになった。このような問題をうけて、J&Jの企業理念・倫理規定である「我が信条(Our Credo)」の最も忠実な支持者の一人であったセラーズは、「我が信条(Our Credo)」に具体化された原則の遵守に再度専念するよう呼びかけた。その少し前、バーク会長はセラーズにある提案をしていた。ロバート・ウッド・ジョンソンJr.によって約30年前に起草された「我が信条(Our Credo)」について、世界中のマネジメントがどのように考えているのか、見なおしてみようという提案であった。たとえオフィスの壁に「我が信条(Our Credo)」を貼っていたとしても、マネジャーの多くは口先だけで同意しているのではないか、とバーク会長は思っていたのであった。

    そこで、“クレドー・チャレンジ”ミーティングが開催され、二日間に亘って討論が繰り広げられた。大多数のマネジャーが「我が信条(Our Credo)」を保持することに賛同したが、より時代に則した内容となるように、いくつか表現を変えるべきだとも主張した。こうした討論や対立を通して、「我が信条(Our Credo)」に“賛同する”機会をマネジメントに提供することで、「我が信条(Our Credo)」の価値基準は彼ら自身の価値基準となり、前の世代から押し付けられたものではなくなったのである。このミーティングが導く結果は非常に重要だったので、その後三年間、何度も“クレドー・チャレンジ”ミーティングが開かれ、J&J全カンパニーの取締役が参加した。結果は、第一回目のミーティングの時と同様で、「我が信条(Our Credo)」の価値基準が再確認され、表現の変更がいくつか提案された。

    1979年、「我が信条(Our Credo)」のために開かれたワールドワイドのマネジメント・ミーティングにおいて、改訂された「我が信条(Our Credo)」が発表された。「我が信条(Our Credo)」は、J&J文化にとってなくてはならない重要なものとしては再認識されるとともに、当時のマネジメント全員に支持される原則となったのである。

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